久しぶりに食べたショートケーキはやっぱり不味かった。
エナは生クリームのべたっとした感触がまだ残っているような気がして、紅茶をごくごくと流しこむ。
「もしかして、ケーキはお嫌いでしたか?」
目の前にいるスーツ姿の男に弱みを見せたくなかったので、エナは思い切り大きく首を振って見せた。
「それならいいんですけど」
エナは今、昨日の男と喫茶店にいる。
男は目を輝かせながら、3つ目のショートケーキを食べている。
エナは呆れ顔で男を見ていた。
「あ、エナひゃんもえんよへふにはへへふははひね。――エナさんも遠慮せずに食べてくださいね。僕ばっかり食べてるわけにもいきませんし」
冗談じゃない、エナは丁重にお断わりした。
けれどそんなエナを気にも止めず、男はケーキを食べている。
思わずため息が出る――どうしてこんな所にいるんだろう。
しばし、そこに沈黙が訪れる。
有線からはさっきからずっと同じ歌手の曲ばかり流れている。エナはあまり興味はないけれど、確か今人気の男性2人組ユニットの曲だ。
そういえばこの喫茶店はやけに人が少ない。
店内を見回していると、ふと視線を感じ、正面に向き直った。
男はようやく食べ終わったらしく、顔を上げてエナを見つめていたのだ。
そして男は唇の端に生クリームをつけたまま、口を開く。
「もしかして、迷惑でしたか? 僕が中学校の前で待ちぶせしていたこと」
当たり前だろう、身元も何も知らない男がいきなり自分を付け回すようなことをしたら、不快なことこの上ないに決まっている。エナはすぐに首を大きく縦に振った。
「ごめんなさい、それについては謝ります」
男は生クリームを、ハンカチ――渋い青色の男物――で拭き取りながらそう言った。彼はなぜかだいぶ年下のエナにまで徹底して敬語で話す。それは投げやりなわけでも事務的なわけでもなく、むしろエナを一人前の一人の人間として扱っているようだ。
エナが不快に思いながらも男に付いてきたのは、おそらくそんなところのせいだろう。
「けれど、あなたがこの世界を生み出してしまったことは本当なんです。この世界を壊せるのは、あなたしかいないんです。どうかこの世界を壊して下さい!」
しかし、この話は未だによく分からない。
世界を壊せ? この男は一体何者で、何を考えているのだろうか。新手の宗教勧誘か、はたまたただのサイコさんか――エナの頭の中で考えが巡る。
そんなエナの考えを見透かしたかのように、男はにっこりと白い翼を広げて、
「申し遅れました。僕はこういう者です」
と言った。
男が背中から出した翼がテーブルに当たり、まだ三分の一ほど残っていた紅茶が零れる。 スカートに染みた紅茶を拭き取ることさえできず、エナは茫然としたまま、何が起こったのか理解できずにいた。
「えと、そろそろ……落ち着きましたか?」
零してしまった紅茶の代わりにと、男が追加注文したホットミルクはすっかりと冷え切っている。湯気が立っていたのは、どれくらい前のことだろう。しかし、エナはなんとかそれを一口飲み干すと、こくりと小さく頷いた。
床の紅茶はすぐに男が拭いたし、スカートに染みた紅茶もすっかり乾いた。まるで何もなかったかのようだ。
どうやら死角だったらしく店内の誰にもこの男の翼を見た者はいないらしい。もうとっくに翼はしまってあり、どこからどうみても彼はただの人間にしか見えない。けれどエナは見てしまった。確かにこの男の背中には、真っ白なそれがあるのを。信じられないことだけれど、この男はどうやら本物の「天使」らしい。
エナは恐る恐る男を見た。黒い髪、黒い瞳、それから黄色い肌。どう見たって、エナと同じニホンジンにしか見えないというのに。
男はエナが見ていることに気づいたのか、話を続けた。
「ごめんなさい、いきなりこんな正体のあかし方をしてしまって。こうでもしなけれ絶対に信じて貰えないと思ったんで」
男はしゅんとして肩を落としている。天使とはいえ、大の大人の男が、だ。エナは何だかおかしくなってくすくすと笑ってしまった。
「子供みたい」
「! エナさん、もしかして喋れるんですか」
男は勢いよく顔をあげると、目を丸くしてエナを凝視してきた。
エナは更に楽しくなってきて、笑い声をあげながら何度も縦に頷いた。
……そういえば声を出すのは久しぶりかもしれない、エナは思った。最近、ここ半年ほどは、タクロウの前でさえ殆ど声に出して喋ることはなかった。特に理由があったのではない。ただ、何となく口を開くことさえおっくうになっていたのだ。第一、タクロウとは言葉なんてなくても、意思の疎通は十分できたのだし。
「よかった! 本当によかった!」
男がなぜ喜んでいるのかは分からない。けれど、エナも何だか嬉しくなってきた。
自分よりずっと年上なのに、何だか子供染みたところのあるこの天使が、憎めなく思えてきたせいかもしれない。
「名前、教えて」
「え、僕のですか?」
「そう」
男はなぜか一転して困ったような顔を浮かべた。
「?」
エナが顔を覗き込むと、男は微妙に視線を逸らした。
「あ、すみません。僕の暮らしている天界では、名前という概念――考え方自体が存在しないんです。けれど、友人には……ツルオカと呼ばれていました」
ツルオカはそう言って苦笑いを浮かべた。そしてスーツの内ポケットから、名刺を取り出し、エナに見せる。そこには飾り文字で、“TURUOKA”とだけ書いてあった。
「変な名前。名字みたい」
「はは、よく言われます」
エナはツルオカをもう一度見た。自分よりずっと年上なのに子供みたいな、妙に人間染みた天使を。
警戒心は全くなくなったわけではないけれど、その澄んだ眼差しは、決して嘘をついているようには見えなかった。こんな目で嘘を付けるとしたら、それこそ相当の悪党だろう。 エナはとりあえずツルオカの話だけでも聞いてみることにした。
今日はもう疲れたでしょうから、明日また伺います――ツルオカはそう告げて、エナの前から姿を消した。
ちゃんと待ち合わせをしたわけでもないけれど、絶対に彼は明日エナの前に現れるだろう。エナは何の根拠もなくそう確信していた。
そして、なんだかツルオカに逢うのが待ち遠しくも感じられた。
「エナ、今日、何かあった?」
夕飯の後、子供部屋に戻った途端にタクロウが問いかけてきたけれど、エナはすぐに首を横に振った。
「そう? ……ならいいんだけど」
そんなエナを疑わしげに見ながら言った。
けれど、どうしてだろう。タクロウにはツルオカのことは話せなかった。
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